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○お寺の歴史(概略)

当山は親鸞聖人の孫、唯善上人が下総国

中戸にて弘安7年(1284)に開いたお寺です。

 

(ちなみに関宿に西光院を興す以前、鎌倉常葉には唯善上人が拠点とした草庵がありました)

 

開創当寺は常敬寺(じょうきょうじ)の

寺号はなく中戸山 西光院(なかとさん

さいこういん)と名のり創建、お念仏の

教えの布教が始まりました。

西光院は後宇多天皇から勅願所の指定を

受け、それに伴って赤門が許されました。

第4世善栄は西光院の院号に続けて

「弥陀本願寺」の寺号を名のりましたが、

第6世善鷲が本願寺蓮如上人に帰順すると

上人から「常敬寺」の寺号を頂きました。

天正2年(1574)の戦乱(第三次関宿合戦)

堂宇を焼失したのち、戦争の混乱で

当山は寺地・寺領を古刹・報恩寺に奪取

されます。

 

そして当山の焼跡は報恩寺が支配する

ところとなり、当山は関宿の土地から

追い出されました。

そんななか本願寺顕如上人の後援も

あり、常敬寺は信濃に移りました。

天正4年(1576)のことです。

石山合戦の際には兵糧米20俵を送る等、

当山は本願寺を直接的に支援したこと

が天正5年(1577)付けの史料から

うかがい知れます。

そして慶長の始め頃 堀氏の招請を受け

越後国に入り、寛文6年(1666)に

現在地の越後高田寺町に移りました。

 

延宝7年(1679)にお西からお東に

転派し、親鸞聖人ゆかりのお寺・血縁の

お寺として現在に至っています。

また関宿の当山跡地には「福泉寺」と

いう別のお寺が報恩寺管理のもとに

建てられました。
 

当山がお東に転派後の元禄14年(1701)、福泉寺は西本願寺寂如上人の命により

旧地であることにあやかって、

 

当山と同じ字を用いた「常敬寺」に

寺号変更しました。

こちらが現在の本願寺派常敬寺さんに

なります。

尚、当山との関係は血縁関係等含め

一切ございません。寺族の名字も

違います。(野田市役所から過去に

問い合わせがあったためここに記します)

近年、当山に「ここは野田のお寺の分寺、分院ですか?」と尋ねてくる方が増えて

まいりました。

いえいえ、

分寺ではなく、唯善のお寺の常敬寺は

当山になります。

(本願寺を開いた覚如の子孫が大谷姓を

名のるように、常敬寺の唯善の子孫は代々中戸姓を名のります。)

赤門
常敬寺のあゆみ漫画.jpg
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